評論の価値

芥川賞直木賞とかヤバいらしい。

評論の意味、意義がどのへんにあるのかはここ読んでふんふんとうなずいた。

批評文化がある程度育っていると、作っているほうはそれを見て自分の方向性を決めやすい。信頼できる評価軸があるということが、モノを作る側にとってどれほど心強いことか。
しかしライトノベルやゲームにはその手の批評文化が育ってない印象がある。
いや、ライトノベルは発展途上だが、ゲームはどうにもうまくいかないね。素人の私的感想の寄せ集め(各種mk2等)ではいかんともしがたいし。いわゆるファミ通レビュー(雑誌上での記者たちの素人インプレッション)がいまだにかなりの影響力があるのがどうにも。ゲームにおけるジャーナリズム的なものは、ネットの上で個人が必死にがんばっているのがせいぜいな気がする。海外だと、もう少しましそうな印象があるのだけれど…


ライトノベルは、ライトノベル論的な本が大量に出たが、内実はどうなんだろうか。
少し前にはこんなエントリが出ていた。

…ああ、なんかそのうち、出版社側が新人賞以外の賞をやりだすかもしれんなあ、と思った。
販促のために。


以下私語り。
こんなすみっこのブログで展開する「感想だか批評だかよくわからないもの」は、id:NaokiTakahashi氏の言葉を借りれば、

  • 自己目的的、批評それ自体が自己充足的に価値を持っているもの

であって、えーとまあ、

このあたりを自戒的に参照せずにはいられない。
でもたまに、感想を書いて誰かに共感されたいという欲求が、もうちょっと社会的な意義のある批評っぽいものを書きたいというほうにぶれることがあって、ジョン平について書いたときとかもちょっぴりそんな感じではある。
ネット上の資料発掘のツールはものすごく発達していて、自分みたいな素人でも超能力モノの開始年を並べてみるぐらいはあっさりできたりする(ネットが無かったらどんだけメンドイことか)。そういう意味では批評へのハードルは下がっている。
(参考:http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/73a0bbb81d18fa11160d735a892bae28
玉石混交とはいえ量だけはあるので、玉を拾い出してつなぎ合わせてモノをいうような富豪的批評を……というのは実になんとか2.0的なお気楽な考え方ではあるが。仮にそういうことが可能であったとして、それをやりうる人間はやはり「批評家である」と自認する人間だろう。
お気楽にやりたいなら影響力を持ちたいという欲求は危険であり、素人は素人であるという自覚が必要。モノを言いたい欲求と、それによって負わなきゃならない責任とをはかりにかけて踏み出さないのがアマチュアというものでして。
(参考:「プロフェッショナル」は技能でなく職業倫理で認定される - アンカテ