創作における倫理な話

これを読んで、マルドゥック・スクランブルに出てくるヤラレ役の異常者グループのことを思い出した。俺はあれが、どうにも受け付けなかった。殺した相手の目玉だの生殖器だのといった臓器を手前の身体に移植する、というあたりの生理的な嫌悪感も強いのだが、どちらかといえば彼らの扱われ方に嫌悪感を感じたのだった。
連中が徹底的に、本当に完全にヤラレ役として扱われたからだ。彼ら*1は残虐に登場し、その異常性をアピールした後、主役であるバロット&ウフコックに残虐に屠られる。
つまりは単なるヤラレ役で、主役らの有能さを表現するための対手として扱うならば、たんに多少強いキャラクターとして設定すれば事足りたのだ。
戦争帰りであり、戦争が彼らをゆがめた、という申し訳がついてはいたものの、俺は、単なるヤラレ役にそこまでの異常性を付与する必然性を、どうしても見出せなかった。おかげで、バロット&ウフコックが屠るのに躊躇の必要のない相手にするために異常性を付与したのではないか、と邪推する羽目になった。もっと言えば、作者の悪趣味な自己満足(作者としては読者サービスのつもりであるかもしれないが)のためにキャラクターが使い捨てられているのを見させられている気分になったわけだ。唯一理由付けとして納得できるものがあるとすれば、マルドゥック・シティという世界観、その退廃さを表現するためのキャラクターとして、となるだろうか。しかし、(俺にとっては、だが)それでは理由付けとしては弱すぎる。
もちろんこれは個人的な感じ方の問題で、単に俺が受け付けないというだけの話かもしれない。ただ、俺は別にグロ描写を毛嫌いしているわけではない。ブライトライツ・ホーリーランドはとても好きだし、ダブルブリッドだって読んだ。単純な感性だけの問題というわけはない。


結局、インモラルな描写をするなら、それに見合うだけの物語的な必然性がほしい。そういう話なのだと思う。読者にとっての免罪符といってもいいかもしれない。
それはエロでもグロ(猟奇描写)でも一緒だと思う。(404 Not Found - むやむやと考える
(一応書いておくと、彼ら(キャラクターたち)が異常者である必然性は、しっかりと物語に組み込まれているのだけれど、俺が読み取れていない、という可能性はある。エクスキューズとして書いておく。)


廣田恵介氏は、スプラッタ映画SAW2に対してこんなことを書いてた。

ようするに、工夫をこらした残虐シーンを早く描きたいがために、よく考えずに走り出してしまったのだ。そこに激しい憎悪を感じる。対価をキッチリ払いさえすれば、何をどう描いていもいい。だが、この映画の作り手は、「やらずぶったくり」。最低のクズだ。

■皿は洗ってあるか?■: 550 miles to the Future


さすがに、ここまで激しい憎悪を感じたわけではないけれど。
マルドゥック・スクランブルは素晴らしい物語だったはずだけれど、冲方丁という作家には、染みのような不信感が残ったままになっている。
マルドゥック・ヴェロシティは、エルロイ文体とかで、察するにノワール的な展開をするのだろう。多分、読まない。

*1:ミンチ・ザ・ウィンク、フレッシュ・ザ・パイク、レア・ザ・ヘア、ミディアム・ザ・フィンガーネイル、ウェルダン・ザ・プッシーハンドと名前がついていたが、その名前は記号以上のものとして扱われたか