キャラクターの生命

ぼんやり、と考える。
いかに記号的になろうと、連中は物語の中でしか生きられない。
わたしも、物語を通してしか彼らに接触できない。


イラストや漫画に比べ、小説はとくにその傾向が強い。
彼らの生きる物語から分離した形で、いかにキャラクターを描写しようと、それに意味はない。


たとえば、まいじゃー推進委員会(http://maijar.org/)では名台詞を紹介している。
基本的に、単一の、見栄えのする台詞が選択される。
それはつまりキャラクターではないけれど、作品の中での極限の断片を抽出して提示する、という意味で、作品の中からキャラクターを抜き出して語るのと近い意味合いを持つ。
しかし、この名台詞というやつは、面白いことに、名台詞として普遍的に扱えるものであればあるほど、物語の中にはぴたりとは納まりにくい。
逆に物語の中で強力な台詞というのは、物語の流れ、文脈が背景にないと生きてこない。物語から切り離して語ろうとすると難しいのだ。


どうも自分は、要素が分離されて記号的に消費されていくという感覚が理解できない。
要素が気に入る、ということはもちろんある。しかしそれを味わうには、どんなに小さくともいいから、背景に物語が必要なのだ。


たとえばあるキャラクターのフィギュアを買ってくる。しかし、彼/彼女をただ置いておいてもむなしいだけだ。
フィギュアやプラモデルが“栄える”には、絶対にショウアップされた空間が必要だ。周囲を片付け、背景色を考えて、空間を演出するのである。ショウアップされた空間というのは、つまりは雰囲気を提示するものであり、最低限度の厚みの物語といえる。


あるキャラクターが気に入ったとする。彼/彼女の活躍を楽しむために、提示された物語を繰り返し再生する。しかしそれで飽き足らなくなると、どうするかというと、二次創作をやったりする。
つまりは自分で物語を作ってあてがおう、というわけ。


また、イラスト化されたキャラクターや、漫画のキャラクターが、キャラクター単体で扱われやすいのは、それが絵の形態をとっているからだ。それは最初から、物語の断片であると同時に、絵単体で見栄えがするように作られている。漫画でも、たとえばアクションの表現のためにコマ割や効果等に力を割いた作品は、キャラクターの絵単体では評価されにくいだろう。


だから、要素が要素単体で消費されるなんてウソだろう、と思ってしまう部分がある。経験からの補完が働こうが、それが駆動するには必ず物語を介するはずだ。
物語というのは、なにか一種の再生装置のようなものだろうか。フィクションの登場人物は物語なしには存在できない。