物語洗脳

退屈な事実よりも作られた物語を語る方がいい場合もある | SEO検索エンジン最適化

現在では、メディアを通じてあまりにも物語が世に氾濫しすぎたため、「現実は物語のようによくできてはいない」ということを発信する必要があるような気がするが。
たいていの人間にとって、今自分が生きているこの世界は、創作された物語ほどには出来がよくない。そのために多くの人は物語が現実であって欲しいという願望を潜在的に抱えている。物語のほうが受けがいいというのはそういうことなのだろう。


そんな例はいくつもある。分裂勘違い劇場における初期のエントリー(参照)が受けたのにはそういった潜在的な願望が影響していると思う。かのブログの性質が明らかではない、最初の仕掛けだったというのも大きい。物語を現実であると思わせる、錯覚させることは難しいしリスキーだが、うまくいけば大きなパワーになる。

あるいは写真家の人生を脚色した番組の話(参照)や、電車男なんかも、おそらくは同一軸線上の話だろうか。水伝なんかもそうか。


しかしなぁ……そういったものばかりで洗脳を仕掛けてきた結果、世の中じゃ、現実の事象に対して、物語のようにありもしない(そして物語のように都合がよくできている)モノを求める人たちが増えすぎてしまったのだと思うのだ。いやマスメディアの洗脳力は、ネットの登場で大幅に解毒されつつはある*1が、それでも日本ではいまだに物語を求めすぎる人が多いように感じるし、結果として全体での現実認識の能力が低いままという印象がある。


そんで、「影響力を高めるためにストーリーテリングの腕を磨きましょう」というメモがあがってきたりする。多分、「人はオハナシを語りたがるのだから、それを安易に受容するな」という物語リテラシの啓蒙が必要なのだろう。物語を通じてどんなメッセージを発信したがっているのかを見抜いて、意識的選択的に受け取る必要がある、みたいな。
いや、それよりも、「すばらしい物語のように感じられる事柄は、夢か幻想のようなもので、あっけなく消える。現実ははるかに味気ないが、ちっぽけだが地に足の着いた価値がある」といったような価値観を発信して逆洗脳をかけたほうがいいのだろうか。そういった物語をつかって。


※参考

*1:ネット自体は毒にも薬にもなる