犬も食わない人生観

羨望とか

現在の己は過去の人生における己自身の(意識的、無意識的に関わらず)選択の積み重ねによって出来上がっている。過去の自分、いままでの人生を「報われたい」つまり無価値ではないと言いたいのなら、今の現状を肯定するしかない。肯定が無理だとしても、最低限己の責任として受け入れなくてはならない。

成功するためには「僕」では無理というなら「僕」でなければいいじゃん

いまのいまから人生を変える判断をし、いままでと違う行動パターンに乗っかったとて、別にいままでの自分が消滅するわけではない。そうしない理由というのはむしろ、“現状を維持することに対する心地よさ”のほうが、“現状を変えることで得られる刺激(成功とは限らない)”に勝っているからだろう。意識的であれ無意識的であれ、そうした価値判断、選択、それにもとづく行動が己自身を作り上げていく。昔、id:fromdusktildawn が、「プログラミングとは経営的価値判断の連続だ」と言ったが、人生も似たようなものだ。そのことにもっと自覚的であるべきだ。現状を続けてダメダメなままであろうと、それを捨て去って別人になろうと、それは自身の判断、選択、行動の結果だ。それを自分の責任において受け止める必要がある。


欲望の話も似たようなものだ。今の、のんきに与太を書いたりしつつ生きている現状のほうが、なにかを求めて七転八倒している生き方よりもマシだ、という価値判断をどっかでしているのではないか。
なんらかの欲望にとらわれたり夢を求めたりするというのは、言ってみれば執着だが、それなりに成果出すやつはもちろんこれが強い。しかしそんなものが最初から欲望として存在していたりするわけがない。なんらかのきっかけがあってそれに出会った、単純な欲望から出発した、その次の段階がある。それに対して己を賭けて良いか否か、という価値判断が行われる。そこで否といえばそれまでだし、踏み込んだ場合は、そういう価値観を受け入れて己のものにしたということになる。一線で活躍するような終着の強いやつは、こんな価値判断を何度も繰り返して、そのたびに「前に進む」ことを決断した連中だ。
たとえば野球を例にとするなら、試合で活躍してヒットを打ったら注目を浴びて楽しかった、そのあたりから出発して、野球部に入ってレギュラーをとる、大会で活躍する、甲子園に行く、プロで活躍する……等々。そういった価値観を、その段階段階で己にとって大切であると認めて受け入れたということだ。そうやって大きな執着を作り上げていった。


そういう大きな執着にはメリットもデメリットもある。メリットは目標が定まるということ。デメリットはその価値観の中で自分に価値がないと判明した場合、というのをどう受け入れるかという心理的なストレス……みたいなもんか。執着がまったくなければ生きていく指針がない、多すぎればがんじがらめで生きにくい。どっちをとるか、それもやっぱり当人の価値判断なのだろう、と、思う。


……まあ、こんなことを、ここ数年ぐらい考えていたような気がする。
ほんの少し、自分の人生を主体的に生きているような気分になれるぐらいの効用はあったかもしれない。