電脳コイルを複合現実っぽく深読みする

電脳コイル絡みの感想をはてぶで拾って見て歩く。
やっぱり面白かったのはこのへん。

お、異世界っぽく見る人もいる模様。

ウチは宗教上の理由で……もとい。そのほうが面白いからという理由で、電脳コイルは複合現実なものとしてみている。電脳空間を発展させてって現実と重ね合わせてみたら、昔の人が信じていたような、精霊や妖怪が住まう目に見えない世界が現代によみがえりました、というのが(私にとっての)この世界の面白みなのである。
なので、そういう方向で解釈してみた。

生身の人間にデータが存在している理由

単純に、電脳オブジェクト側から人間を認識したり、人間側から電脳オブジェクトにアクセスしたりするためと思われる。
AR(拡張現実感)でいえば、認識用のタグをおでこに貼っておくようなもの。また、データが壊れても本体にさして悪影響はないようだ(フミエの台詞「私らはデータが壊れるだけだから」より)。
で、データがトンで修復できない場合にどうなるかというと、電脳空間側から見て人間は幽霊になるのだろう。存在はするのだが、見ることも聞くことも出来ない。気配は感じるかもしれない。
では、己のデータが壊れることを怖がらなくてもいいのかというと、微妙かもしれない。データに思い入れがあれば。たとえて言うなら自分のブログが綺麗さっぱり消えてしまうようなものだ。


たぶんこんな感じで類比出来る。
ウェブの世界、あるいはもっと限定して俗にブロゴスフィアと呼ばれる世界において、この世界に影響を及ぼすには、ブログを持ち、運営する必要がある。ブログが、ブロゴスフィアにおけるその人の実体となる。ブログを失ってしまうと、ブロゴスフィアにおいてもちうる影響力はなくなるか、限定的になる。(たとえば以下を参照。
「あちら側」にハミ出すアイデンティティ - アンカテ
それはデータに過ぎないが、しかし当人にとっては、あちら側にはみ出たアイデンティティの一部であり、影響を与える/受ける端末であるというわけだ。ブログを書いている人なら、ある程度はわかるのでは。残念ながら、いまのところはブログペットは愛着をもてるほどの存在とは思えないけれど。

もっとも、電脳コイル世界ではデータは容易に修復できるようですが。しかし仮に、ヤサコのデータが完全に破壊されて再インストールした場合、デンスケから見てヤサコの匂いが微妙に違う(データが壊れる前のヤサコと、修復後のヤサコの同一性が電脳ペットからはあやふやになる)などということはありそうではある。バックアップはお小まめに。

メタバグとメタタグ

そもそもいまのところ、メタバグを練成(まさしく錬金術である)してメタタグを作り出すシーン以外、電脳アイテムや電脳ペットを生成するシーンというのは出てきていない。メガ婆がやったのは裏技として、正規の手段が存在するはずである。
仮に、電脳空間を支えるインフラが現実のそれと類似であると仮定して、オブジェクトとして電脳アイテムを生成するということは、メモリやハードディスクをその分占有することになる。となれば、リソースは有限であろうから、それは空間管理局当局が(厳重に)管理していると思われる。そこから貸し出されて業者が電脳ペットを生成する。のではないか。
そう仮定すれば、非合法なオブジェクトを生成する手段、その元としてのメタバグの価値がわかる。すでに生成されたオブジェクトがなんらかの理由で結晶化し、再加工可能になったもの、である。当局を通さない非合法なアイテムをつくるには、メタバグを加工して……つまり、正規に生成されたオブジェクトを変質させて行うしか方法がないのだろう。

キョウコが青い物体を振り下ろしてモジャモジャをつぶした

一話でリュックをのっけられたデンスケのリアクションと矛盾する気が。そのシーンで、デンスケはおしりがリュックと重なり合ってしまい、あわてて逃げるのだ。
と思ったが、あれ粘土か? クレヨンもそうだが、子供向けおもちゃには知育のためかデータが設定されているのかもしれない。
ちなみに、電脳ペットなどの電脳物体から、物理的なフィードバックが起こったらダウトである。釣竿に引っ張られるとかデンスケを抱きかかえたように見えるとか……は、そのように見えるから人間側が意識的、無意識的に対応しているだけで実際に感覚があるわけではない。はず。
とはいえこれの根拠はヤサコの「デンスケにも触った感触があればいいのにな」という台詞だけ。デンスケ側からはなでられている感触はあるものの、ヤサコにはデンスケを触った感触はない、という非対称がある。
ほか、明らかに物理的な物体を電脳ペットが持ち運んだりした場合もダウト。キョウコがデンスケの頭にのせたトグロウンチも電脳オブジェクトのはず。

神社は神域?

前回参照。しっかし神秘性も糞もない解釈だな。
鳥居を通れない理由は、神秘性ゆえではなく、鳥居というシンボルが、神社と他の土地との区分けに用いられているため。
というかそれなら普通の建物や人間と同じようにデータを設定してしまえばよさそうなものだが、それこそなにか宗教上の理由があるのかもしれない。


ところで、この、子供たちの遊び場として描かれるサイバー世界は、見ていてふっと連想するものがある。企業やその他の俗な人間たちが進出する前、ハッカーたちの遊び場であった時代のインターネットである。
いやわたしゃそれを自分の感覚で目にしたわけじゃないのだけれどね。
何が言いたいかといえば、つまりは、こういった牧歌的で同時にわくわくするような世界というのは過渡期にしか存在しえず、いずれひたすらに俗な世間というものに侵食され、融合し、失われていくのだろう、ということ。
ああいう世界に生きていたような記憶にならない記憶があるのだけれど、それはいつのまにか失われてしまった、なんてね。記憶なんてあてにはならない。