冬の巨人 感想

冬の巨人 (徳間デュアル文庫)

冬の巨人 (徳間デュアル文庫)

前回素直に読めなかった、と書いたのはつまり、(以下ネタバレ)


つまり、モチーフが同作者のブライトライツ・ホーリーランド(以下ブライトライツ)に酷似しているせいでついつい比べながら読んでしまったということである。以下、ブライトライツ・ホーリーランドの大ネタバレ込みで。


両者で類似するモチーフはいくつかあるが、大きなものでは二つで、

  • 閉鎖的な都市、都市の崩壊から脱出する人々、崩壊する都市の中から立ち上がる巨人
  • 上から降りてきた妖精さん

このへん。後者のほうは、とりあえず置いておく。前者はクライマックスのシーンなのだが、ほとんど相似といっていい。違うのは、生まれ出でる巨人の持つ意味合いであり、しょってるテーマが正反対といってもいいほどなんである。


ブライトライツにおいては、生まれ出てくるのは神様だ。プロジェクト・トリニティという壮大だが非人間的なプロジェクトの果てに神を生み出そう、というのがブライトライツの物語だ。しかしこの神様は、あまりにも巨大で無垢であるがゆえに人間に対しては徹底的に無関心なのである。あまつさえ、市当局はプロジェクトのために下層市民を皆殺しにしかかるし、人間たちは神様の誕生の余波で全滅しかかる。
ケイオス・ヘキサ世界においては、神様が誕生しても、人間たちの苦境はなにも解決しなかったのだ。
しかし、ブライトライツ・ホーリーランドはだからといって無力感を結論とはしていない。巨大で無垢だがある意味できわめて虚無的な神と対置して、ちっぽけで猥雑だが生命力にあふれた人間たちが描き出されているのが、ブライトライツに読み取れるテーマだった。
ラストシーンで、人々は神に背を向け、危険な荒野に歩みだす。その様は、とても力強い。*1


対して、冬の巨人では、生まれ出でる巨人は希望の象徴だ。世界には春が訪れ、人々の世界は無限に広がっていく。そのあまりにもストレートな展開と表現は、ブライトライツを知っていると単純に底が浅いようにも感じられてしまうのだが……、んん、これは、おそらく書き方の相違でもあろう。ブライトライツが、ほぼ逃れられぬ運命として都市の崩壊を書いているのにたいして、冬の巨人では、主人公のオーリャは決定的な仕事をしている。巨人が再生せずとも、人間たちはディエーニンやサヴォーディンに率いられてたくましく生きていったろうし、そう筋道つけたのがオーリャだ。主人公がより積極的に未来を掴み取った、その結果として副次的に「春」が来た、そういう物語なのかもしれない。


だとすると……しかしフルハシは、ケイオス・ヘキサにせよタツモリにせよ、巨大な何かに対峙しながらどうにかこうにか生きていく人間たちを書いていたのであり、たいして冬の巨人では、より主体的な、より前向きなものを書こうとしているのかな、というテーマの変遷を感じたりする。古いファンとしては、一年もかかってしまったという後書きの述懐や、作中にもなんとなく漂う筆のすべりの悪そうな雰囲気を見て、「いやフルハシ、アンタまだ、そこまで『ハッピーエンドで終わる世界』を信じてはいないだろ」と思ってしまったりするのだけれど。しかしまあ、それは邪推というもので、「冬の巨人」には、慣れない筋肉を使いながら、新しい方向に行こうとしているような雰囲気が感じられ、それはむしろ好ましい。「冬の巨人」はおそらく完成度ではブライトライツ・ホーリーランドには及ばないけれど、次にどんなものを書くのだろう、それを読んでみたい、とそう思わせる作品だった。
そういう意味で、現在の力を十全に発揮して書かれたシスマゲドンとは対照的である。


しかしまあ、ややまっとうでない読み方をしてしまった気がするので、あとでゆっくりと読み返したい。

*1:あれほど殺戮とバイオレンスにまみれた異形のアクションを描きながら、同時に悟りめいたなにかを宿しているのが、ブライトライツ・ホーリーランドという作品である