ダークナイト

古橋秀之ブライトライツ・ホーリーランドを読んだ人は、映画館に足を運んで見てくるといい。
ダークナイトを見てきた人は、ブライトライツ・ホーリーランドを読むといい。
古橋の創造したスレイマンというキャラが、ジョーカーという概念を正しく受け継ぎ、発展させたさまを見るだろう。


ジョーカーにもはやバットマンという対手は必要ない。ただ「在って在る者」として創造されたのがG・G・スレイマンというキャラクターなのだ。
彼がゴッサム・シティを上回る混沌の都市、<ケイオス・ヘキサ>で何を見、何を為し、いかに殺戮したか、是非その目で。


ブライトライツ・ホーリーランド (電撃文庫)

ブライトライツ・ホーリーランド (電撃文庫)

秋春制

げんなり。いやはやネットの速度は早い。とりあえずのメリットデメリットからそもそもの問題(結局は日程問題なのだ)まで一通り議論されてるんだから。

ま少なくともこの話、いまの日程をまともに整備して、かつ秋春制で重大な(おそらくは致命的な)損害をこうむるであろう北国のクラブの了承と協力の約束を取り付けてから発表すべきだよね。順番が逆。。。

サッカーの話

なんか吐き出したくなり、そういやここが放置してあるのを思い出しました。
↓これ。
http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/etc/news/20080711-OHT1T00047.htm
http://www.tokyo-np.co.jp/tochu/article/soccer/news/CK2008071302000164.html

なんかもう、ドイツ以前の代表バブルとか呼ばれてたころ、あのころよもう一度、と言ってるようにしか聞こえない。
エキサイティングで面白いサッカーをやっていく、日本代表が世界に伍するためにサッカーの質自体をあげていく、そういう話がなんで第一に来ないんだよ。
JFA会長になったとたんにいきなり「クラブより代表が優先」じゃダメだろう。「勝たねばならない」て、誰に勝つというんだ。勝つためにはサッカーの質を地道に上げるしかなくて、そのためには代表優先したってどうにもなんないだろうに。
代表とクラブは対立するところじゃないんだよ、協力するべきところで、代表とクラブの権力争いみたいな方向にもってこうとしてないか、この人。


選手のメディア露出を増やしていくという話も正直きな臭い。
日本という国の人間が、サッカー(に限らずスポーツでも芸人でも)選手というのは、サッカーという一芸を見せて飯を食っているごく普通の人間だ、という認識をもっと持てているなら露出が増えたってかまいはしない。
でもそうはなってない。芸人は芸だけでなく、そのパーソナリティそのものを面白がられ、消費される存在で、スポーツ選手もそれに準じて見られている。
そういうお国柄(といってもどこでもそうのような気はするのだが。海の向こうでは芸人(芸能人)のプライバシーがきっちり尊重されてるとか聞くけど本当?)では、選手へのメディアの接触を規制するのはむしろ正しい方向ですよ。とりわけ若い才能あるプレイヤーが心底“サッカー漬け”になるためには。
そりゃ、サッカーはヒトのやるもので、選手の魅力こそがファンが目当てにするものだってのは理解はできます。
(野球がそのへん強いのは、局面局面では個人のプレイに集中しやすく、選手に焦点が当てやすいあたりかも)
でも、女子バレーボールみたいな悪しき例が手近にあるからなあ……。


よーするに、選手がサッカー以外で使いつぶされるみたいなことになるんじゃないか、みたいな懸念。
ま、杞憂に終わることを祈ってますけど。

フルハシのエッセイを読みつつ

エッセイはこれ。

で、以下の記事に対する言及です。

これは王道が大事だよ、という話ではなく、サプライズやメタ展開で攻めるならば、それを読者が受け入れられるように周到な準備が必要だ、といったような話に思えます。物語を語る、読むという双方向からの関わりにおいて、語り手(作者)は受け手(読者)との信頼関係を裏切ってはいけない、というところに本題があるんじゃないかなあ。表面的な横紙破りを行うには、裏打ちとして莫大なフォローが必要、みたいな。


あと、冬の巨人に関してはわたしゃブライトライツ〜との類似が気になってあんまりうまく読めなかったと思うのだけれども、たとえばこんな感想を書いている人もいる。

オチが素晴らしい。なにがあっても終章を先に読むような読み方だけはしてはならんのです。正直、ミステリのネタバレよりもずっと作品をスポイルする能力が高いです。いやぁ素晴らしい落ち方だ。

http://triskaidecagon.justblog.jp/triskaidecahedron/2007/04/post_e917.html

王道的にすすめつつも、サプライズに似た衝撃を残す。そのために、クライマックスに向かってスケール的な緩急や演出的な緩急をつけ、最後のところで一気に落差を作って落とす、そういう方向性なんじゃないかなぁ。読者に“びっくり感”を与えるという目的は変わってないのでしょう。

だから、「王道が大事なんだ、だから冬の巨人」という見方はちょっと違う気がする、という話です。

ブラックロッド いまさらの感想

ブラックロッド (電撃文庫)

ブラックロッド (電撃文庫)

(一応アマゾンリンク。在庫ありませんが)
例によってネタバレ。もちろん初読での感想ではないので、新鮮味のあるものではない。
じつのところ、古橋秀之デビュー作であるところのブラックロッドは、物語としてはあんまし面白かった記憶が無い。
とりあえず、最悪に近い出会い方をしたのがその一因と思われる。

  • 漫画版から入った

三部敬のコミカライズ版から読み始めたのである。これはそれなりによくできているが、ケイオス・ヘキサという異形の街のイメージとしてはインパクトが薄く、ただそれにしたって絵から入ったことは、小説においてイメージを膨らませるという部分でかなり制約になったような気がする。
かつ、このコミカライズ版は、掲載誌の打ち切りとかでかなり中途半端なところで止まっていて、具体的にはウィリアム・龍の首が落ちたところで止まっている。つまり原作を買い求めた最大の理由ってのは、続きを読みたかったからだった。そのせいで結末に興味が集中し、読み急いだ記憶がある。

  • 大オチのネタが事前に読めてしまった

これが結構痛かった。オチのネタというのは、「片目の神官に目をつぶされたものが、次の神官になる」という伝説である(コミック版では巻末で軽くネタ晴らしもしていたっけ)。たしか、諸星大二郎のコミックで知ったのだと思うが、この知識と「少年向けの娯楽小説なのだろう」という予断がこーんな憶測を生んだのである。

  1. 主人公である傷顔のブラックロッドがランドーになってしまう
  2. さすがにそれでは(少年向けであろうし)オチにならないから、そこを覆す部分にドラマを持ってくるに違いない

しかし、結末は知ってのとおり、主人公である傷顔の物語としては、1で終結して悲劇として終わる。俺にとっては、予想の斜め上でなく真下というか、ひっくり返ることを期待していたところでなにもなかった、ということになった。これは非常に痛かった。
おそらく作者としては、主役が勝つと思わせておいて負ける、がオチになる予定だったと思うのだけれども*1。まあ出会いが悪かったんだ、しょーがないとしか。


で、まあ、このオチの部分を楽しめないとなると、ブラックロッドは物語としての楽しみ方が見出しにくい小説なのだった。
物語は二つの軸をもっている。ひとつは傷顔のブラックロッドとヴァージニア7、ヴァージニア9とランドーの対決。もうひとつはランドーに関わる事件の調査を依頼されたウィリアム龍の線。このふたつが交互に描かれ、最後に合流する形になっている。
いちおう、両者ともに主役といえるのだが、感情移入するに足るドラマをもっているのはどちらかといえばブラックロッド(傷顔)のほう。ウィリアム龍は軽薄で憎めないが、役回りとしては狂言回し。シリーズ皆勤の彼は通して読めばとても魅力的なキャラクターだが、やはり主役ではない。
しかしブラックロッド(傷顔)の物語として見れば、傷顔は裏切られて予言のとおりに死ぬだけの役回りである。救いは無い。また、その悲劇性を十分堪能できるような仕掛けにもなっていないような気がする。だから、個人の物語としてオチがそれではあんまりだ、というのが正直な感想になる。
一応、物語全体の結末として提示されているのは、傷顔を含む幾人かの犠牲によって神を作り出す、その技術が一歩進んだ、そのことによって希望が生まれた、ということなのだが、しかし、その計画を推進していたのは陰謀集団である降魔局であり、そこにドラマ性を見出すのはちと難しい。結局は主人公らはいいように使われただけなのだし。


結局物語を無理に楽しむよりは、そういうものだと置いておいて、あとは世界観やギミック、造語、アクションの流麗さ、等々のディティールを楽しむことになるのかな、という感じである。SFとしての顔もブラックロッドの時点では、それらいくつものディティールの一部という感じ。実のところ、このディティールの部分がこの小説で一番楽しいところではなかろうか。

SFとしてのブラックロッド

日本のサイバーパンクとして士郎正宗攻殻機動隊の影響は当然ある中で書かれた小説だと思うが、攻殻機動隊のゴーストという概念に対してアンチテーゼ的な書き方がされているように感じる。「ゴースト? いやそんな曖昧な概念に逃げないで”魂”を定義してやらぁ」みたいな感じで。このあたりオカルト=科学な世界の強み。その上で魂を持たない吸血鬼を主役の一人に任じて、人の真似事をさせてみたり、いやこいつは魂を持たない虚ろなのだと言わせてみたりして遊んでいるのだ。この吸血鬼がまたやけに人間くさいので読者としてはニヤニヤするわけである。


もうひとつは宗教SFとしての側面。オカルト=科学として構築された世界では、神秘性を剥ぎ取られた宗教は力を失った、という描写がなされる。

「つまり、この予言が的中すれば、それは<神>の存在を証明する有力な証拠となるの。
 ――あなたは、神様の存在って信じる?」
 訊くまでもない。ブラックロッドは仮説上の存在など考慮に入れない。

ブラックロッド P87-88

身もふたもない。神様は存在が証明されていない仮説上の存在である……と言われては、信じるほうもはりあいがない。シリーズを通せば三大宗教がそれぞれ登場するが、物語の舞台である都市、<ケイオス・ヘキサ>においては、どの宗教も衰退への道をたどっている。
それが物語の結末として「神様を作る」というところにうまくつながっている。まあそれでも、やはり主題として任じえるほどではないかな。それはブライトライツ〜まで待たねば。

ギミック

ここでは小道具の意だが、とにかくかっこいい。それら小道具への描写が寄り集まって独特の雰囲気を醸成している。小道具自体の造りもいいのだが、それらに対する描写も読んでいて小気味いい。たとえばタイトルにもなっているブラックロッド=黒杖特捜官、その名前の由来となっている黒い杖への描写はこんな感じ。

そして、右手にたずさえられた巨大な黒い呪力増幅杖(ブースターロッド)。冷たい光沢と身の丈を超える長さを持つそれは、権力(ちから)の象徴であり、呪力(ちから)の源であり、威力(ちから)そのものだ。人は「力」に対する畏れを込めて、それを持つものを<ブラックロッド>と呼ぶ。

ブラックロッド P23

やはりかっこいい。

*1:イムリーなことにこんなコラムが出ていた。「改竄事件」- 古橋英之

DARKER THAN BLACK -黒の契約者- アニメ感想

今期唯一全話見通したので、せっかくなので感想を。

とりあえず概略。DARKER THAN BLACK(以下DTB)は、超能力者によるスパイものアニメ。主人公黒(ヘイ、中国語読みなわけ。黒の契約者、とは彼のこと)とそのグループは、所属する諜報組織からの命令によって、他の諜報組織らとスパイ戦を繰り広げる。焦点となるのは、ゲートと呼ばれる特異な空間とそこから得られる知識、技術だった。契約者と呼ばれる超能力者もゲートからもたらされたもので、契約者同士の争いが主要な見せ場のひとつである。
基本的に前後編で一話、つまり1時間枠でエピソードが語られる。


で。最初に結論を言ってしまうと、個々のエピソードを単体で見れば佳作、シリーズを通しての物語という視点で見ると駄作。そんな作品。


個別のエピソードは、一時間枠で区切りを取って作っているのが上手くいったのだろうか、できのよい物が多い。スパイものと言いながら、実は結構ウェットな部分も多く、主人公である黒(ヘイ)の表の顔、裏の顔という二面性とあいまってそれが上手く噛み合う。多くはその結末において希望のある方向へ向くのか、それとも救いの無い終わり方となるのかというのが最後までわかりにくく、ために緊張感がある。特にシリーズ序盤のエピソードはよいものが多い(あえて選ぶとしたら「契約の星は流れた」「壁の中、なくしたものを取り戻すとき」あたりを推す)。とはいえ後半になると、やや人情話的な部分が鼻につくような部分もあり、オチの付け方に安易さを感じることも。ま、あとは殺陣や超能力の表現といったところは地味だけどとてもエッジが利いていて私の好みでございました。


問題は、シリーズを通して縦糸として設置されている部分。序盤、主人公の動機付けとして「妹を探す」というのが出てくる。当然、主要な伏線だと思いましたさ。なのだが、それに対しては結局まともな回答が出されずに終わるのだ。最終回に脳内空間で妹と対話して、「妹はあなた(黒)の中にいるわ」みたいな結末。この部分がまず納得いかない。
そして、代わりに最終回のテーマとして出されたのが、「人類と契約者の共生」というもので、エンディングもそれにそって流れるのだが、そんなテーマ、序〜中盤で一度でも語られましたっけ? 終盤においても、それが主題であると認められるような丁寧な書かれ方されてましたっけ? というところで盛大にずっこけた。
おまけに、である。「契約者によるスパイアクション」と「人類と契約者の共生」の間の絶望的なまでの溝を埋めるためになにかやたらと設定が盛り込まれるのだな。特につらいのが「主人公が特別な契約者であり、人類と契約者の命運を左右しうる能力を持っている」というやつで、これに関する説明がなにもないのである*1。最終回の最後のほうまで解説役の博士がキィキィ声で設定を「説明」していたのには脱力した。


正直なところ、この作品は「人類と契約者(超能力者)の共生」というような全人類的なテーマを扱えるようなスケールの大きさは備えていなかった*2。スケールが大きくない、というのは別にけなしているわけではなく、この作品は主人公およびその周囲の人間たちの、個人的な物語を語るのにちょうどいいスケールだった、のだと思う。最初から最後まで「妹を捜し求める」という線で展開し、「妹と出会って主人公がどう変化するのか」を結末として持ってくれば綺麗に終わったろうに。そのオマケとして(クライマックスへの箔付けに)、なにか大きな事件が起こってもいいだろうけれど、主題はあくまで主人公の属人的なものであれば。


この手のテーマの投げっぱなし、あるいはすり替えは、正直かなりつらい。設定の齟齬なんかは余程でなければ気にしないのだが。

*1:一応、妹の能力を取り込んだためと説明されているが、では妹はなんでそんな能力持ってたのか、という説明はなされない。

*2:ていうか同時期にやってた「地球へ…」の主要テーマなのがまた…

名前を出すということ

http://d.hatena.ne.jp/m_tamasaka/20070929/1191023224

あー私も以前「編集も名前出せ」といいましたっけ。多分、作品作りにおいて編集さんが占める影響力の大きさから見て、編集さんが名前を出して仕事するという方向は、それほど間違っちゃいないとは思うのですよ。


ただ、作家というのは、作家というパーソナリティを売り物にする芸人みたいな側面がありまして。つまりは、「自分が書いた作品」だけではなく、「作家としての私」を商品として不特定多数の読者に晒す部分がある。特にライトノベル作家なんかは、作家自体がキャラクター化しているなんて言われますよね。
対して、編集さんは、付き合う相手自体はごく普通の職業人の範囲にとどまるでしょう。そういう人がいきなり不特定多数の読者の視線が刺さってくるような、そういうポジションに来たがるかな?


一例だけをあげますが、古橋秀行は一部の著作で、担当編集さんを「ミネさん」という呼び名で(おそらくは本人の同意の元ででしょうけれど)あとがきに登場させたりしてるんですが、あれってよく許したよな、とちょっと思う。「にょ」とか言わせてますし。
で、結果として一読者である私は、ブライトライツ・ホーリーランドを世に送り出し、タツモリを立ち上げ、打ち切り、その後もどこまで担当が続いてるのかわかりませんが、まあそういう仕事に携わる編集さんを、仮称だけれど知ることになった。
で、この場を借りてミネさんに言いたい。ブライトライツ・ホーリーランドを世に送り出してくれてありがとう。でもできればもう少し売らしてやってほしかった。あとタツモリを打ち切りにしたのだけは許せないから、どうにかしてやってください。


……とまあ、こんな感じに、仮称でも名前を出すことで、読者からの視線、意識が直接編集さんに向かうことになる。私はごく普通の職業人として、取引先のわずかな人相手にしか名前が売れてない人なわけですが、そういう感覚からすると、不特定多数の人から視線を向けられるというのは、実はかなりキツいものなのではないかという気がする。
それでも作品作りにおける責任の大きさを考えると、編集さんはもう少し前に出てきて、読者の批判的な視線にも晒されるべきとは思うんですがね。作家だけにそれを肩代わりさせずに。まあ、徐々にそういう方向になっていくといいな、と思います。