渾身の一撃というよりかは、「俺の急所にヒットする一撃」なんだと思う

ラノベ作家が放つ渾身の一撃を味わいたい - ブログというか倉庫

いや、いや、いや(笑) そんなんいくらでもありますよ。ただそんな作者が己の魂のみに忠実になって編集の干渉を排除してまで書きなぐったものなんて、そうそう面白いものにならないし、想定されうる読者層は当然ごく狭くなるから、たとえ作品の質が高かったとしても、それを十全に楽しめる読者は限られたものになる。
だから、よくて「隠れた名作」、あるいは「みなは駄作だの理解できないと言うが俺はあの作品は大好きなんだ」とかそんな風に評価される作品になるわけで。そんな作品いくらでもありますって。本当にピンポイントに尖がった作品は本当にごく一部の読者にしか理解できません(笑) それじゃ売れないから、そこまでニッチ向けにしか書かない作家は生き残れない。ニッチでもそこそこの数があって、一定数に確実に売れるところまで行ければ生き残れるんでしょうけれどね。個人的にはニッチ作家でも生き残れるように、編集〜出版にかかるコストをどうにか低減して、作家絶対数を増やしてほしいとか思ってますが、なかなかそうはならないでしょう*1。ネットが出来て以前よりマシになったとはいえ、宣伝戦略によって超ベストセラーが生まれたりするのは今でも変わらんし。ああと脱線。


で、id:hobo_kingさんが言ってるのは、「自分にとってのストライクゾーンに全力投球を投げ込んでくる作家さんにいてほしい」って話だと思うんですよ。だってたとえ全力投球でも、自分にとってはストライクゾーンはずれどころか大暴投だったら、当然そんなもの打てるはずがない(面白さを理解することができない)。全力投球かどうかすら判断できないでしょう。


読者側でやるべきなのは、自分にとってのストライクゾーンを認識して、そこに投げ込んでくれそうな(かつ、全力投球してくれる)作家を探すことです。アンテナ高く張って。アンテナが高くなれば(たとえば同人にまで手を出せば)当然ノイズも大きくなるから、はずれも増える。まあそれは仕方がない。自分のストライクゾーンにぴったりくる作品を書く作家を見つけるのは、結構コストのかかることです。*2
もうひとつは、もちろんストライクゾーンを広くする努力をすることですね。

*1:電子出版にはある程度期待かけてたけどそう甘いものでもないようだ

*2:ネットで個人の私的な書評を拾える現在では、そのコストも以前とは比較にならないほど低くなってはいる。

「魔法少女フォーマット」を自らはぎとったら……?

ほぼ同感。3期見てて思ったのは、「魔法少女モノ」というのがいかに強力なエクスキュース、言い訳だったか、ということ。リリカルなのはを「魔法少女モノ」として認識している限りは、見る側はリリカルなのはという作品を「魔法少女モノ」というフォーマットにはめ込んで楽しめばそれでよいので、世界観に多少の穴があってもある程度はフォローが効いていた感があります。

しかしそのフォーマットがご破算にされてしまうと、物語としての構造や世界設定をゼロからビルドしなければならないだけに、そっちに視聴者の注意がいってしまう。いってしまった。もちろんそこで緻密に組み上げてあれば問題はないのですが……
そういうのが得手なスタッフではなかったですね。


そういや、1月ごろにあげた私のおばかなエピソード予測はあんまりあたらなかったっぽいですが、(リリカルなのはStrikerS - むやむやと考える)「魔法少女フォーマットを、そんなに安易にご破算にしちゃって大丈夫なん?」という危惧だけは綺麗にあたっていた気がします。

前回記事への反応

いろいろ反響があったんで反応したかったんだけど、都合悪く忙しくなってしまって綺麗に放置状態に。コメントしてくれた人すみません。

コメントへの反応等も遅まきながらですがこちらに。

tek_koc 無茶なのはわかってますが、それでも文章側が絵を発注できるようになればな、なんてことをよく妄想しています。それこそ美少女ゲームのように。

それをするには――というのは、一方的に作家側からイラストレーター側に注文を出してイラストを仕上げてもらうには、たとえば絵コンテ描いたり構図を定めたりといったところまでを、作家さんがやれる必要がある気がします。まあ現実的ではないですね。そこまでいかなくとも、発注する側に絵に対する理解といいますか、少なくとも絵描きさんと絵に関することを会話できるスキルが必要だと思います。

そのあたりはamさんの発言の

am そういう意味では、絵を前提とした文章作成ができる訓練を積んでいる人でなくては(漫画原作者とかアニメのライター)難しいかもしれません。

このあたりにやや同感で、本当にそういう体制でやるようになったら、ライトノベル作家さんにはそういった能力が求められたりすることになるんでしょう。まあやっぱり、基本は絵描きさんとコミュニケーションとれる能力ということになるのだと思いますけれど。

前回の記事って、いちおう、イラストがとても重要である、と読者が感じているような状況では、作る側もそれにふさわしい体制、イラストレーターさんを製作体制のもうちょっと中心近くにしたほうがいいんではないか、という主張なわけですけれど。それがベストであるかはもちろんなんともいえない。いまのところ、絵描きさんへの人脈を含めた絵描きさんとの交流スキルをもっている作家は、多少のアドバンテージを得られる場合がある、ぐらいの話、ですかね……


ほか。

デザイナーさんの仕事については頭の片隅にちらっと浮かんだけどそのまま消え去りました。たぶん編集の内作でやってしまう感覚だった気がする。どうもそれは時代遅れの感覚だったようですね→ライトノベルの装丁におけるグラフィックデザイナーの比重の変遷 : ARTIFACT ―人工事実―


で。

自称・被害拡大コンビ(笑い)。 むしろ、川上稔さんを上げるべきなんじゃないでしょうか。

はてなブックマーク - crea555のブックマーク / 2007年7月3日

ええ。そりゃまあ、あれです。単に一番先に思いついた例であるというだけなんですが、あえて言うならあのコンビへのプッシュ含みです。わたしゃ「タツモリ家の食卓」を、発売された時期にすみやかに買わなかった(あのブラックロッドの古橋がコメディ書いたって読む気がしない、と三年ぐらい放置していた)ことを未だに後悔してるのです。そういうわけで、わたしはタツモリの続きを未だに待っています。

いや、読者じゃ駄目じゃん? イラストレーターも作品作る側に

だから、イラストレーターというのは、絵師である以前に第一号読者なのだ。

404 Blog Not Found:それ以前に、作品ちゃんと嫁>イラストレーター

いや、読者じゃだめじゃん? この手のことを解決するには、もうイラストレーターを巻き込んで、ライトノベルという作品を、作家とイラストレーターの共同制作物としてつくるしかない。


現状では、本文が出来上がってからイラストレーターがあとからやってきて、本文に合わせてイラストを書く、たいていはそういう工程。イラストは作品に付加されて価値を高めるパーツではあっても、本質ではない。あくまであとから付け加えられたもの、という作り方。
いまでも職人的なイラストレーターは作品を読み込んで書いてくれるわけですが、それはイラストレーターの努力に拠る。イラストレーターにとってはイラストこそが自分の仕事の成果であって、イラスト単体で評価されうるものだし、だいたい本文面白くねーし、読んでる時間ねーし、報酬少ないしそこまでやる義理はねー、となったら通り一遍等読むだけでイラスト書きとしての最低限の仕事で済ませてしまうことはありうる。かくして本文読み逃しだの、あるいは作品を読みきれずに本質を突いたイラストをかけないだのといったことが起こる。


これを覆すには、作品作りにもっと早い段階からイラストレーターを巻き込む、そんな案が思い浮かぶ。企画段階、構想段階からイラストレーターと意見交換し、早い段階でイメージイラストをラフに描いてもらって作家のイマジネーションの糧とし、作家、イラストレーターの共同作業で本を作っていく、そんなイメージ。
イラストレーターの扱いを“イラストも本文も込みの作品”の原著者の一人として、作品の出来に責任をもたせる、そういう方針。拘束時間を増やす代償として報酬も増やす。あー、担当編集さんの名前も出すべきですな。編集もマネジメントや作家のモチベーション管理なんかもやってるんだから、名前出すべきですよ。
で、ここまでやってはじめて、イラストを作品の一部として取り込めるんじゃないですかね。


ま、このへんは古橋秀之前嶋重機あたりの(うまくいったっぽい)関係を念頭に書いてるわけですけれども*1

ただ、このやり方がすべての人にとってベストかといえばとてもそうとは思えないわけですが。チームの維持というのはふつーの仕事では当然重要な要素ではあるのだけれども、作家とイラストレーターという、単独で作品を作り上げてそれで飯を食っている人間が交流するには、互いの仕事に対する理解と敬意が不可欠なわけで。作家が「あんたは俺の言うとおりに絵を描いてりゃいいんだよ!」とのたまったり「書くのおせーよ」「あんたの作品は面白くない」とイラストレーターがぶちまけたりすると目も当てられない。結局編集が間に入ってビジネスライクにやり取りするぐらいのほうがいいのかもしれない。
前述の古橋・前嶋というコンビがうまくいったのは、古橋秀之イラストレーターという仕事にかなりの理解を持っていたことと、もともと両者に交友関係があったこと、などが前提にあったようですし。
まあ、そこらへんは編集さんががんばって仕事しろよ、という話になるのかもしれません。というか、ライトノベルの作り方を変えうる位置にいるのも編集さんだしなあ。編集さんがんばれ。

*1:前嶋重機は古橋が自分のコネでひっぱって絵師に。「蟲忍」では前嶋重機主導というスタイルまで試している。

ネットにしかいない人格

たまにはパソコンを置いて、街へ出よう。

俺のネットでの生活とリアルでの生活というのはどうしようもなく分断されていて、そこに行き詰まりを感じるなぁ……。


少し前から、「ネットにしかいない人格」をネタにSFをつくれないかと考えていた。リアルの付き合いにたいする億劫さゆえに、ネットの世界でだけ存在する人格というものに意味があるのかというあたりに意識が行ったのだったか。発端は思い出せない。ちょうど、ゼーガペイン*1を見たとかそのへんが理由かもしれないな。
それで、ではその「ネットで生きる人格」の生きがいはなんぞやという話。


人間からの注目を浴びていないと生きていけない知性体とか、脳みそだけの存在で、自分の生命を維持するためにネットで金を稼がなくてはならない障害者とか。そんな仕掛けを考えた。
たとえばこんな感じだ。その男は事故で半身不随になり、身の回りの世話は家族に頼るしかない。唯一動く舌先でちいさなキーボードを叩き、目配せで意志を通じる不自由な生活。そこに舞い込むのが人体実験の話だ。つまり、我々の実験に付き合ってくれれば、思考するだけでネットに接続できるようにしてあげますよ、と。
頭骨を開いて電極を接続するアレな手術。実験は成功する、男はネットに限定された、だがそれまでに比べれば大きな自由を獲得する。ところが、紆余曲折あって研究は中断されてしまう。
さて困った。手術で機器と接続されたいま、生命維持には金がかかるからだ。しかし予算が無ければどうにもならない。
こうなれば、自分で金を稼ぐしかない、と、彼はネットで金を稼ぐ手段を模索する。


……というあたりでネタが尽きた。
イデアはまあまあ悪くないと思うのだが、ネットで金を稼ぐ部分でリアリティがないと面白くない。しかしそれを書けるほど知識は無いのだな。それ以上に、その先を考えるには「ネットにしか生きていないということはどういうことなのか」という部分で自分なりの結論が必要だ。
いや、そもそもその思考実験のためのSFネタではなかったか?
相互にフィードバックを重ねながら考察を進めてく必要がありそうだが、どうも土台の脳みそに能力が足りなかったようだ。あるいはこのアイデアではうまくないのか……無念。

*1:人類丸ごとデータだけになってしまって「データでしかない俺の生き様に意味ってあるのか?」と悩む少年のお話。青春ロボットアニメ。

電脳コイルを複合現実っぽく深読みする

電脳コイル絡みの感想をはてぶで拾って見て歩く。
やっぱり面白かったのはこのへん。

お、異世界っぽく見る人もいる模様。

ウチは宗教上の理由で……もとい。そのほうが面白いからという理由で、電脳コイルは複合現実なものとしてみている。電脳空間を発展させてって現実と重ね合わせてみたら、昔の人が信じていたような、精霊や妖怪が住まう目に見えない世界が現代によみがえりました、というのが(私にとっての)この世界の面白みなのである。
なので、そういう方向で解釈してみた。

生身の人間にデータが存在している理由

単純に、電脳オブジェクト側から人間を認識したり、人間側から電脳オブジェクトにアクセスしたりするためと思われる。
AR(拡張現実感)でいえば、認識用のタグをおでこに貼っておくようなもの。また、データが壊れても本体にさして悪影響はないようだ(フミエの台詞「私らはデータが壊れるだけだから」より)。
で、データがトンで修復できない場合にどうなるかというと、電脳空間側から見て人間は幽霊になるのだろう。存在はするのだが、見ることも聞くことも出来ない。気配は感じるかもしれない。
では、己のデータが壊れることを怖がらなくてもいいのかというと、微妙かもしれない。データに思い入れがあれば。たとえて言うなら自分のブログが綺麗さっぱり消えてしまうようなものだ。


たぶんこんな感じで類比出来る。
ウェブの世界、あるいはもっと限定して俗にブロゴスフィアと呼ばれる世界において、この世界に影響を及ぼすには、ブログを持ち、運営する必要がある。ブログが、ブロゴスフィアにおけるその人の実体となる。ブログを失ってしまうと、ブロゴスフィアにおいてもちうる影響力はなくなるか、限定的になる。(たとえば以下を参照。
「あちら側」にハミ出すアイデンティティ - アンカテ
それはデータに過ぎないが、しかし当人にとっては、あちら側にはみ出たアイデンティティの一部であり、影響を与える/受ける端末であるというわけだ。ブログを書いている人なら、ある程度はわかるのでは。残念ながら、いまのところはブログペットは愛着をもてるほどの存在とは思えないけれど。

もっとも、電脳コイル世界ではデータは容易に修復できるようですが。しかし仮に、ヤサコのデータが完全に破壊されて再インストールした場合、デンスケから見てヤサコの匂いが微妙に違う(データが壊れる前のヤサコと、修復後のヤサコの同一性が電脳ペットからはあやふやになる)などということはありそうではある。バックアップはお小まめに。

メタバグとメタタグ

そもそもいまのところ、メタバグを練成(まさしく錬金術である)してメタタグを作り出すシーン以外、電脳アイテムや電脳ペットを生成するシーンというのは出てきていない。メガ婆がやったのは裏技として、正規の手段が存在するはずである。
仮に、電脳空間を支えるインフラが現実のそれと類似であると仮定して、オブジェクトとして電脳アイテムを生成するということは、メモリやハードディスクをその分占有することになる。となれば、リソースは有限であろうから、それは空間管理局当局が(厳重に)管理していると思われる。そこから貸し出されて業者が電脳ペットを生成する。のではないか。
そう仮定すれば、非合法なオブジェクトを生成する手段、その元としてのメタバグの価値がわかる。すでに生成されたオブジェクトがなんらかの理由で結晶化し、再加工可能になったもの、である。当局を通さない非合法なアイテムをつくるには、メタバグを加工して……つまり、正規に生成されたオブジェクトを変質させて行うしか方法がないのだろう。

キョウコが青い物体を振り下ろしてモジャモジャをつぶした

一話でリュックをのっけられたデンスケのリアクションと矛盾する気が。そのシーンで、デンスケはおしりがリュックと重なり合ってしまい、あわてて逃げるのだ。
と思ったが、あれ粘土か? クレヨンもそうだが、子供向けおもちゃには知育のためかデータが設定されているのかもしれない。
ちなみに、電脳ペットなどの電脳物体から、物理的なフィードバックが起こったらダウトである。釣竿に引っ張られるとかデンスケを抱きかかえたように見えるとか……は、そのように見えるから人間側が意識的、無意識的に対応しているだけで実際に感覚があるわけではない。はず。
とはいえこれの根拠はヤサコの「デンスケにも触った感触があればいいのにな」という台詞だけ。デンスケ側からはなでられている感触はあるものの、ヤサコにはデンスケを触った感触はない、という非対称がある。
ほか、明らかに物理的な物体を電脳ペットが持ち運んだりした場合もダウト。キョウコがデンスケの頭にのせたトグロウンチも電脳オブジェクトのはず。

神社は神域?

前回参照。しっかし神秘性も糞もない解釈だな。
鳥居を通れない理由は、神秘性ゆえではなく、鳥居というシンボルが、神社と他の土地との区分けに用いられているため。
というかそれなら普通の建物や人間と同じようにデータを設定してしまえばよさそうなものだが、それこそなにか宗教上の理由があるのかもしれない。


ところで、この、子供たちの遊び場として描かれるサイバー世界は、見ていてふっと連想するものがある。企業やその他の俗な人間たちが進出する前、ハッカーたちの遊び場であった時代のインターネットである。
いやわたしゃそれを自分の感覚で目にしたわけじゃないのだけれどね。
何が言いたいかといえば、つまりは、こういった牧歌的で同時にわくわくするような世界というのは過渡期にしか存在しえず、いずれひたすらに俗な世間というものに侵食され、融合し、失われていくのだろう、ということ。
ああいう世界に生きていたような記憶にならない記憶があるのだけれど、それはいつのまにか失われてしまった、なんてね。記憶なんてあてにはならない。

呪術とSF、電脳コイル

論を強引にもってくためには、あえて「偏見」と言う名の「仮説」を取り上げて、「電脳コイルとかけて、理系クリエイターの純粋な(ある意味能天気な)魔術、呪術への憧れ、信仰と解く」とぶち上げたわけ

電脳コイルとかけて、理系クリエイターの純粋な(ある意味能天気な)魔術、呪術への憧れ、信仰と解く。その心は? - トボフアンカル・ミニ・メディア(T:M:M)

いや、それは違うんではなかろうか。
というのは、原因と結果だけが目に見えて、過程がブラックボックスなものはどれでも呪術的に見えうるからである。ことにソフトウェア科学の分野というのは、抽象的な概念を事象に落とし込む経路が発達しているせいか、呪術と相似に見えるシーンが多い。そのへんをネタにしているSFもいくつかある*1電脳コイルはこういったことに自覚的に作られてるんではなかろか。


とりあえず、サッチーが鳥居の向こう側を見通せない理由は、ここまでの情報量でもそこそこ解説できる。

  1. サッチーは公的領域においてのみ権限を与えられており、私的領域に干渉できない。(これは推測。「サッチーは家の中に入ってこれない」から)
  2. 神社は私的領域として認識される。(これも推測)
  3. サッチーは神社に入ってこれない。
  4. サッチーは鳥居をシンボルとして神社を認識している。(神社は他の私有地と比べて、公的領域との分割が難しいためか?)
  5. 認識能力が大雑把なためか、サッチーは鳥居の図案を鳥居と誤認識する。
  6. 鳥居の図案を円で囲った落書きは、鳥居の存在する閉領域として、サッチーは神社と誤認識するため、入れない。

「鳥居の図案を円で囲った落書きにサッチーは入れない」という原因と結果だけを抜き出すと呪術に見えるわけ。誰か、「サッチーは鳥居に似た図柄のようなものでも鳥居として認識する」ことを発見し、「落書きレベルの鳥居の図案でもサッチーは鳥居とみなす」ところまで実験して確認したやつがいたはずである。

*1:士郎正宗「仙術超攻殻ORION」、古橋秀之ブラックロッド」あたり